古事記って本当に最古の歴史書なの?

古事記って本当に最古の歴史書なの?

 

では次になぜ古事記が日本最古の歴史書なのかについて考えてみたいと思います。

古事記の前には歴史書というか過去をつづった書き物はなかったのか、という疑問が出てきます。

答えは「あるよ!」です。正確には「あった」です。

古事記の最後に登場する推古天皇の時代に、かの有名な聖徳太子と蘇我馬子が編纂し西暦620年に撰上されたとされる「天皇記」と同じく「国記」です。もしもこの二つがあったとしたら日本書紀はともかく古事記は作られなかったかもしれません。ただし私が考えている倭言葉にのみ固執したなら古事記から帝紀の部分を取り去った本が作られていた可能性があります。

 

つぎに なぜ古事記が作られたか考えてみましょう。

それを考える上での原点を探ってみると、大もとの大もとは628年に推古天皇が後継者を指名せずに亡くなったことかも知れません。

 

当時の世継ぎは現代のように完全世襲ではなく、だれが継ぐかは、「だれがふさわしいか」や「血縁の濃さ」などで決められました。それはまだ中央集権国家・天皇制が確立されていない証拠でもあります。各氏族の長の意見も聞かなければならなかったという事です。

 

そのため権力闘争が起こり厩戸皇子一族が滅ぼされ権力の中心が蘇我氏に移りました。(長くなりますのでかなり省略しています)蘇我蝦夷(ソガノエミシ)が権力を掌握し息子の入鹿(イルカ)を無断で大臣につけたり天皇を凌ぐ行いをしました。要はやりたい放題やったという事です。ただし歴史はいつの世も勝者の歴史ですので、勝者の都合で記録はどうにでも改竄できますからマルマルこの話が正しいかというと話半分で理解した方がいいかも知れません。(参照コラム 神道と仏教にも書いてあります)

このままじゃいかんだろうと中大兄皇子(ナカノオオエノオオジ)と中臣鎌足(ナカトミノカマタリ)が入鹿の暗殺を計画し645年(大化元年)7月10日に実行しました。

簡単にいうとやっつけちゃったんですね、これが乙巳の変(いっしのへん)です。このあと中大兄皇子と中臣鎌足が中心となり中央集権国家の確立を目指しました。これが大化の改新です。

 

この乙巳の変の時に蘇我氏についていた豪族が離反して兵も武装解除され抵抗できなくなったため蝦夷は館に火を放ち自害しました。蘇我氏宗家の滅亡です。

 

この火災によって「天皇記」は焼失し「国記」は持ち出された記録はあるものの行方不明となりました

したがって体系的にまとめられた書は失われたものと思われます。

もしもこの「国記」が発見されたなら日本最古の歴史書の称号は古事記から移ることになります。

 

この記録がなくなってしまいますと何が起こるのかといいますと。

戸籍もないし写真付きの身分証明書もない時代ですので「我こそは○○天皇の末裔である」と名乗ってしまえば、そうなりかねないということと。

氏族・豪族では自分自身でそれぞれの家の家系や功績を記録した○○家記のようなものを都合の良いように改竄して「オレッチの爺ちゃんのそのまた婆ちゃんは〇〇天皇の5番目の娘なんだぜ」って言ってもそれがウソであることの証明ができません。

 

さらにいえば「天皇記」や「国記」の写本を持っていたとするならばそれそのものを都合の良いように改竄してもわからないということです。つまり外戚なり放題・功績作り放題となります。

 

為政者にとってその為政者たる正当性がゆらぐということは国家としての体制そのものが否定されかねませんので死活問題です。

 

ですから天武天皇が「そいつはちょっとまずいよね、今のうちにキチンとしとかなきゃ」って、いつかははっきりとしませんが674年から677年ごろに「帝紀や本辞を検討し誤りや虚偽を削り真実を定めて後世に伝えたい」と思い、舎人の稗田阿礼に命じて、これらを誦習させた。」ということです。

 

余談ですが 稗田阿礼が天武天皇から「頑張って覚えてね」って言われたのが677年として元明天皇が太安万侶に「阿礼ちゃんの覚えていることを本にまとめてね」と言ったのが711年その間実に35年。阿礼ちゃんの記憶力の良さには驚かせれます。

 

ちょっとここでわたしの考えを挟ませてもらいますと、前に「国記」が見つかれば最古の歴史書云々と書きましたが正直なところ、わたしの古事記の定義がほかの人とずれています(いやな性格です)古事記の前にも史書とまではいかないものの国記のもとになる風土記(各地方の地誌)などがあったはずですし、偽りや誤りがあったとしても典籍(てんせき 日本人によって書かれた書物)として残っているものがあるはずです。でなければ稗田阿礼が口伝だけを誦習したことになってしまいます。

原文に「度目誦口 払耳勒心」目に度り口に誦え 耳に払えば心に勒とあり。

意味は 一度目にしたら(読んだら)口に誦え(となえ) (だれかの言葉を)耳にすれば(聞けば)それを心に勒(きざむ)ということですから、多くの書物を読んだとする方が自然です。

 

とすれば舎人である稗田阿礼は完璧な識字力と記憶力があることになり、それを天武天皇自信が認めていたことになります。ならば天武天皇は「阿礼ちゃん面倒かけるけどそれまとめて書いておいて」と言わなかったのか?。そうすればひょっとしたら自分の生きている間に出来上がったかもしれないのに。さらに元明天皇も稗田阿礼ではなく、わざわざ太安万侶に書き起こさせたかという疑問を感じます、さらにいえば太安万侶ならできることがあったからではないのでしょうか。このことはもう一度「最初に読んでほしい後書き」のなかで触れていますのでここでは簡単にいいますと「日本語で書く」ことです。この時代すでに文字で書くには漢文・漢語が当たり前になっていました。ですから日本の話ことばで記録しそれを残しておきたいという思いがあったのだと思います。

そこでわたしの古事記の定義は「古事記とは日本語で書かれた日本最古の歴史書」となります。

ご清聴ありがとうございました(笑)。

 

ただし天武天皇は681年にもう一つの史書「日本書紀」の編纂を命じています。記録にはありませんが稗田阿礼がそれを手伝ったとすれば逆に太安万侶が作ろうとした古事記の内容を語ることは安かったのではないかと思います。

ちなみに日本書紀は681年に編纂を命じられ720年まで39年の歳月を費やして全30巻と系図1巻が作られました。(原本は現存しません、系図は写本もありません)

 

一方古事記は711年9月18日に元明天皇が太安万侶に書き起こしを命じ712年1月28日に献上しています。

たった4ヶ月で古事記を書き上げています。この速さを考えると、もしかしたら太安万侶は日本書紀編纂に加わっていたのかもしれません(「弘仁私記」の序に名前があるそうです)舎人である稗田阿礼は身分が低いため、いかに聡明とはいえ「お手伝いその他大勢」にうもれ名前の記述はありませんしかし元明天皇が天武天皇の意をくんで直接指名しているくらいですからふたりとも日本書紀編纂の最中であり古事記編纂の下地は充分にあったと考えても不思議ではありません。

 

古事記編纂の詔や撰上の日付が日にちまではっきりとしているのに対し、日本書紀ははっきりとしていません。その理由は古事記には「序文」がつけられその中にはっきりと書かれているのに対し日本書紀はそういった記述がなく、いつ成立したのかは日本書紀本文からはわかりません。「続日本紀」の記述により撰上時期が特定されているだけです。

 

ですから「古事記」の序文が偽書でなければ正確な日付といえます。しかし「日本書紀」には「史書」という肩書がありながら起稿・脱稿・撰上・発表のどれも本文には記載されていません。現在私たちが何らかの書類を作成する場合、絶対に記載される日付がないのはなぜなんでしょうか。

ふ〜〜〜長かった

ザックリと紹介するつもりでしたが書き始めると、悪い癖が出てあっちこっちに話が飛んで支離滅裂になってしまいました。

この調子で書いていくと本編が心配でなりません。古事記を解読するより、この本編を理解する方が大変になってしまうかも知れません。まんいちそうなったとしても笑ってお許しください。

ではお待たせしました、(自称)古事記の完全解説書の始まりです。

次の記事古事記上巻(1)天地創造

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